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人と食をつなぐシェフの仕事とその軌跡ー八芳園取締役総料理長・西野剛氏インタビュー

2021.10.28

人と食をつなぐシェフの仕事とその軌跡ー八芳園取締役総料理長・西野剛氏インタビュー

2021.10.28

「総合プロデュース企業」として多くの婚礼やイベントをプロデュースし、「生涯式場」として、人々の人生の節目に寄り添い続ける八芳園。そんな八芳園で食に関する全般を統括し、今年10月には取締役総料理長に就任した西野剛氏にインタビューを行った。フランスでの経験や生産地への想い、そして次世代へ引き継ぐ「温故知新」の精神など、シェフとしての西野氏の歩みと思想に迫っていく。

フランスでの経験、恩師との出会い

飯塚:本日はよろしくお願いいたします。初めに、西野さんが料理人を志したきっかけをお聞かせください。

西野氏:高校生の時にファミリーレストランでアルバイトをしており、その頃から料理が面白いなと思っていました。料理を作ってお客様に提供するというところに興味を惹かれて、調理師学校で本格的に学んでみたいと思ったのがきっかけですね。

飯塚:調理師学校ご卒業後は日本国内のレストランでご経験を積み、その後フランスに渡ったとお聞きしました。どのような経緯でフランスに行くことになったのでしょうか。

西野氏:フランスへ行く前に所属していたホテルは、フランスで修行を積んだシェフの精鋭が揃っているところでした。そのような環境だったので、周りに後押しされる形でフランス行きが決まりました。それまでも行ってみたいとは思っていたのですが、日本での生活を置いていくわけですから、やはり勇気がいりましたね。

飯塚:フランスで最初に入ったレストランでの仕事はどのような感じでしたか。

西野氏:30人ぐらいの大所帯のレストランでしたが、調理の最前線で働かせていただきました。調理場でのフランス語での掛け声は少し苦労しましたが、思いのほかすぐになじめました。日本のフレンチレストランでは、調理の際の声掛けはすべてフランス語なので、その点には慣れていたんです。その頃は26歳で、特に仕事に集中している時期でしたし、必死だったんでしょうね。9月に渡仏したのですが、3ヶ月くらいでなじめましたね。ある時、シェフから直々にトリュフの担当に指名されました。フランスでは12月1日からトリュフの解禁なので、それに合わせてレストランに直送されるトリュフの下処理と管理を任されたんです。その頃にはオーダーもこなせていて、ある程度評価していただいていたので、責任のある役割を任せていただけたのかなと思います。

飯塚:文化も言葉も異なる国で、すぐに仕事に順応できたとは驚きです。3年ほどフランスで経験を積まれた後、2014年に八芳園にご入社されていますね。ご入社されたきっかけは何でしたか。

西野氏:食材業者さんから当時の総料理長をご紹介いただいたことがきっかけでした。当時の八芳園は婚礼の組数がかなり多かったので、世代交代や育成の面では遅れがあった時期でした。総料理長はじめ経営陣や八芳園で働くメンバーの姿やお客様への想いに共感し、八芳園への入社を決めました。

飯塚:食のバリアフリー化の取り組みが7年前に始まったとのことでしたが、その取り組みのための新しい人材を求めていたのでしょうか。

西野氏:そうですね。私が入社して一週間後くらいに、当時の総支配人に料理をプレゼンするという機会があり、その時に野菜中心のメニューを振る舞いました。私が長らく追究していた、ただ、調理をした料理を提供するだけでなく、素材本来の魅力を引き出し生産者の想いものせた料理で何をお客様に届けるのかという点を評価していただけました。

飯塚:それまでのご経験を通して培った技術と発想が社内でも評価されたんですね。野菜を重視するメニューへのこだわりには、何か背景があるのでしょうか。

西野氏:フランス滞在時にいろいろなエッセンスを得ていた中で、今でもお付き合いのある有名な料理人と出会いました。フランス料理業界の重鎮で、パイオニアとも言われている音羽シェフという方です。過去には、ルレ・エ・シャトーの今年のシェフに選ばれています。
音羽シェフはかなり前から地産地消を推進していた方で、フランスから帰国後は宇都宮で地元の野菜を使ったメニューを考案されています。野菜との向き合い方という面では、音羽シェフから教わったことが大きく影響しています。一緒に食材の生産地に足を運んだり、生産者の方とお話ししたりした経験はとても貴重で私の中では大きな転機になりました。その出会いがなかったら、その場にあるものをただ調理するだけの料理人になっていたかもしれません。料理人としての本当の楽しさに気づくことができたというところが大きかったですね。

飯塚:音羽シェフとの出会いがあったからこそ、今の西野さんがあるんですね。

西野氏:そうですね。音羽シェフはいろいろなお店を経営されてたので、そこで研修に参加させていただいたりもしました。料理への考え方という面で、非常に影響を受けましたね。

「まずは行くこと。土に触れること。」

飯塚:西野さんは、自ら各地へ足を運んで生産者の方と交流し、作物が育つ環境を肌で感じるということを大切にされていますが、それはいつ頃から取り組まれているのですか。

西野氏:八芳園に入社する以前から時間を見つけて、よく産地へ行っていました。土、肥料、天候、日照時間、水はけなどのことは、行ったことによる気づきというのが多々あります。生産者の方一人ひとりのお話を伺ったことや、実際見てみて体感したことが私の中の大きな軸になっています。

飯塚:シェフ自ら産地に行くことで、意識が変わったことはありますか。

西野氏:私自身に限らず八芳園全体での意識が変わりました。産地に行って食材を見ることで目が養われるので、なるべく若いシェフたちにも行かせるようにしています。やはりまずは行くこと、そして土に触れること。それが一番大事だと思っています。この時期の野菜はこうやって火を入れれば美味しくなるとか、そういった野菜の性質などは農家さんから直接話を聞いて、自分で収穫して食べてみないとインプットされていかないと思います。若手のメンバーが産地に極力行ける環境を作ってあげることも大切だと思っています。

飯塚:ただレシピ通りに作るのと、実際に産地を訪問した上で作るのとでは全然違うんですね。

西野氏:そうですね。インプットの量で料理人としての引き出しが変わってくると思います。たくさんインプットすれば、アウトプットする際も深く考えて工夫しながらできると思うんです。生産の現場を見ているのと見ていないのとでは、大きく差が生まれてくるのではないかと思いますね。

飯塚:最近訪問された地域はどこですか。

西野氏:日本全国の自治体のホストタウン活動を支援させていただく中で、栃木県の那須塩原市を訪問しました。これは、オーストリアを相手国とする栃木県那須塩原市、岩手県矢巾町、長野県安曇野市が連携し3自治体の素材を使ったオーストリア料理を開発し東京2020大会時にはオーストリア選手に届けよう、というプロジェクトです。プロジェクトでの取り組みとして那須塩原市の那須拓陽高等学校の学生のみなさんに、地元の食材を使ったオーストリア料理を考えていただきました。八芳園側が少しサポートして完成した料理を、那須塩原市に事前合宿にきたオーストリアのパラリンピックトライアスロン代表選手に召し上がっていただき、大変ご好評をいただきました。

飯塚:この那須塩原市での取り組みは西野さんお一人で訪問されたんですか。

西野氏:本当は私一人で担当する予定でしたが、あえて次世代のメンバーも連れて行って、高校生たちと料理を一緒に開発してもらいました。そうすることで、地域との取り組みを次世代へ繋げるということも同時に行いました。

飯塚:それは面白い取り組みですね。若手のシェフを積極的に巻き込みながら地域と交流されているんですね。

西野氏:そうですね。これからは彼らが中心に担っていくことですし、若い世代なりのアプローチの仕方もあるでしょうから、積極的に関わってもらっています。私だけでなく次を担う若いシェフが行けば、次の年以降も現地とのご縁がつながっていくと思うんです。

飯塚:西野さんが次世代へつながる道を切り開いて、若手の背中を押しているんですね。

西野氏:道を切り開いて、私自身は後ろに引いていく感じですかね。彼らに道を譲りますが、だからといって見放すわけではないので、サポートやアドバイスをしながらさまざまな事業に取り組んでいます。産地やそこで出会った方たちと良い関係を築いていって、それを次につなげていくというところも私の任務だと思います。

飯塚:学生さんたちにとってもいい経験となる機会を提供されているんですね。

西野氏:そうですね。今回は若手のメンバーも連れて行ったので、年齢が近い高校生にとってはすごくよかったと思っています。こういった取り組みが今後も長く続いていけば嬉しいですね。

「美味しい」以上の価値を生み出すために

飯塚:八芳園は伝統を大切にしながら、新しい技術や価値観を積極的に取り入れていますよね。料理においてそのような取り組みの事例はありますか。

西野氏:はい。もちろん和食にも洋食にもあります。例えばコンソメスープですね。コンソメは手間がかかるものなので、料理人としては一番高いコースのメニューに入れたいものなんですよ。ですがコンソメって一般的にはポテトチップスや、家庭料理で使うような顆粒のコンソメというイメージがあるので、安っぽく感じてしまうんです。

飯塚:確かに、家庭料理でも手軽に使えるコンソメは一般家庭になじみがありますよね。本格的に作るとなると、どれくらい手間がかかるものなのでしょうか。

西野氏:実は丁寧に作ると3日くらい時間が必要となります。まずは鳥や牛でブイヨンを作って、そこに卵白を入れて透明にします。そのままでも十分にコンソメの風味を感じていただけるのですが、さらに同じ工程を重ねることで深みが増したダブルコンソメになります。この風味豊かなダブルコンソメをお客様に味わっていただくために、じっくり時間をかけて仕込んでいます。

飯塚:そんなに時間と手間がかかるんですね。手軽に使える一般的なコンソメのイメージとかなり差がありますね。

西野氏:そうですね。若い世代にとっては、コンソメって何が高級なのかピンとこないと思うんです。このように、作り手と受け手で価値観がずれているということは他の料理においてもありますし、その点の対応はどこの料理長たちも苦戦していると思います。そのため八芳園では、伝統的な作り方を元にしつつ、表現方法を変えるなどの工夫をしています。本質を理解していただくために時間をかけるよりは、違った新しい見せ方にしたほうが面白いと思うんです。もちろん伝統的なコンソメをお客様にお出しする時もあるのですが、夏にはそのコンソメをジュレにして前菜に添えたりしています。今まで八芳園で作ってきた伝統的なコンソメを、アレンジして提供するということですね。あえてコンソメという表記もせずに、料理を提供するサービススタッフに説明してもらうといった形をとることもあります。

飯塚:なるほど。お客様への伝え方も考慮されているんですね。西野さんは料理において「温故知新」を大切にされていると伺いましたが、八芳園のコンソメはまさにその好例ですね。「温故知新」についてのお考えを、西野さんの言葉で改めて聞かせてください。

西野氏:昔のことをよく勉強しないと、新しいものは出てこないということだと思います。まずは昔のことをよく勉強してから新しい知識を取り入れて、それから発信していくという流れを大切にしています。過去の失敗の連続で今の料理があると思うので、歴史を知ることは本当に大事なことなんです。例えばタルトタタンという洋菓子がありますよね。あれはタタン兄弟がパイを慌ててひっくり返してしまったことが始まりです。失敗から生まれた料理って多いんですよね。そのような歴史を知った上で調理できないと、お客様に詳しく説明もできないので、最新の情報をインプットするだけでなく歴史や過去の事例からも学びを得るようにしています。

飯塚:料理の美味しさだけではなく、それ以上の価値を提供できるように努力をされているんですね。

西野氏:プロとして、美味しいものを提供するのは当たり前だと思うので、それ以上の付加価値をご提供するには、昔のことを深く知らなければいけないと考えています。当たり前ですが基本を知らないと応用ができないので、まずは基本をしっかりと身につけることをメンバーにはいつも伝えています。

おわりに

西野氏は、シェフとしての誇りと厳しさを持ちながらも、物腰柔らかく親しみやすい一面もあり、共に働くメンバーとお客様を大切に思う真心にあふれた人だった。

メニューの開発、運営体制の整備、人材育成、産地との交流など、その仕事の範囲は厨房という空間にとどまらない。それらのマルチな活躍は、人と食のつながりと、その向かう未来を切り拓くための重要な仕事である。長年培ってきた経験の重み、恩師への敬意、関わるすべての人を思いやる心が、西野氏の優しくも強い眼差しから伝わってくる、貴重なインタビューだった。

※こちらの記事「誰もが食の楽しみを共有できる世界へ—八芳園による「食のバリアフリー化」への試みでは、八芳園全体としてのお客様に寄り添った取り組みをご紹介しています。

八芳園(はっぽうえん)

昭和18年の創業以来、豊かな自然環境づくりと、食生活への奉仕を通して、社会に貢献する総合プロデュース企業。「日本のお客様には心のふるさとを。海外のお客様には日本の文化を。」を理念に掲げ、「OMOTENASHIを世界へ」をミッションとして、MICE、結婚式をはじめとした、宴会・レストランなどの企画運営を展開、都心にありながらも江戸時代から続く約1万坪の由緒ある庭園を維持し、お客様へ至福の時を提供している。

 

インタビュアー:飯塚純子

大学卒業後は専門式場にて、バンケット・プランニング・新規営業など幅広い業務を担当。 現在はchipperにおいて、EC/D2C事業部マネージャーおよび5Senses Magazineの責任者として、クライアントに寄り添った新規提案から運用までを行う。

ライター:本多はるの